以下の出来事は、私が不動産業界に入る10年以上前のお話です。

前回からの続きを読んで下さりありがとうございます。
お暇な時に読んで頂けますと幸いです。



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私が奇跡的に勤務できたデベロッパーの会社は、
3人のデベロッパー(うち2人はユダヤ系アメリカ人、1人は日系人)、
社員はほぼ80%ユダヤ系アメリカ人のエリートという構成で、
私は副社長の秘書をしながら、イタリア系アメリカ人の顧問会計士と経理の元、
経理補助を担当していました。

当時は未だ、不動産デベロッパーの会社にいながら、
不動産エージェントの仕事はしていませんでした。
というより不動産の知識はほぼゼロでした。


その日は、いつものように出社をし、デスクの片付けを済ませ、
上司と共に社長のお母様の書籍出版サイン会に出向く用意をしていました。


社長の運転手付きリムジンに同乗、パークアベニューを北上し、
アッパーイーストの会場に向かう移動中に、
普段歩くことの無かったビリオネア街道にそびえ立つ、高層ビルを眺める私に、
副社長のジェネットが色々と教えて下さいました。

Billionaire's row



UES



ある一角は、相続で所有されているビルで賃貸はおろか、外国人には購入権が無いだとか、
このビルのオーナーは昔からよく知る誰々で、、、云々



今思えば、普通の不動産業者の人でもあまり知らない情報なんだと思いますが、
とにかく学生時代には知る事の無かったマンハッタンの超富裕層社会の一部が
垣間見えた気がして、ニューヨークの不動産について
もっと知りたいという気持ちが増していきました。



そして、会場につくと・・・

前方の椅子に佇む、見た目は80代前後のおばさま・・・

溢れんばかりのエネルギー、オーラと、豪快な笑み!

お会いしてすぐに、とてつもないオーラを感じました。

日系人社長から、「母親のK子だよ」
と皆にご紹介があり、
サイン会では、少しお話させて頂く機会を与えられました。

当時、彼女は大手米系不動産会社の副社長でした。

日本人女性でありながら、そしてそれもアメリカで生まれ育った訳でもなく、
流暢とは言えぬ英語なのに、アメリカ人は彼女を囲み、笑いが絶えない。

その魅力は、恐らく私が到底知る由もない程、
苦労された経験から来たものなんだろう、と感じ取れました。

初対面だったので、つっこんだお話はできませんでしたが、
帰宅し、K子さんが執筆された本を読んでみて、驚きました。

今から約60年以上前の東京でのお話です。


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当時まだハタチ前後の彼女は、ニューヨークに渡り
ファッションデザイナーを目指していたこと。

まとまった軍資金が必要だったから、銀座髙島屋で勤務しながら、
夜は横須賀のバーでバイトしていたこと。

銀行から信用を得て入手した資金で横須賀の軍事基地近くに土地を購入し、
アパートを建設し、軍人に賃貸業を始めたこと。一から全て自分でやったこと。

数年後に貯金を持って、アメリカに渡り、
ニューヨークはマンハッタンにある現FIT(ファッション工科大学)にて留学。
本格的にデザイナーを目指し始めたが、
講師が彼女に質問してくる始末で3年目で退学を決め、デザイナーとして独立。

当時(今から60年程前)、まだ不動産が安かったので、
マディソン街と5番街に2店舗を同時開店。

今から想像も出来ない程、治安の悪かったマンハッタンの様子。

マディソン街店舗では、開店まもなく雇っていたアメリカ人に顧客名簿を盗まれ、
5番街店舗では、黒人の暴動デモに巻き込まれ、ビルが焼けてしまったこと。

デザイナーの道を諦めなさいとの神様のお告げを受け、主婦をしていたが、
65歳でふとした転機で不動産会社に就職、10年後には副社長に就任した経緯など。


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65歳という年は、日本では定年の年です。
そんな時になぜ一気奮闘就職を果たし、はたまた不動産業界での成功への道を歩むことが
できたのか。

(あの、オノ・ヨーコさんの物件を管理していた方だったそうです。)



何歳からだって、やる気さえあればできないことはない!!


と豪快に笑い飛ばす86歳(当時)のK子さんを見て、
目が覚め、勇気をもらいました。


そして、自分が路頭に迷いそうになっていた時に、K子さんとの
出会いがあり、
遠い日本という国を離れてから、自分がずっと探し続けてきた事。

それは、

「日本人」というアイデンティティ

でした。


日本人でなくとも、アメリカで働いた事がある人なら誰しも経験しますが、
色んな人種に揉まれます。
そしてアメリカで揉まれるうちに、私は改めて自分の

「日本人」というアイデンティティ

を冷静に見つめ直し、気付いたのでした・・・

「日本という国に対しての尊敬の念」だとか
「日本人としての誇り」。

アメリカ社会のいいところと悪いところを見る中で、日本人の思いやりや情の深さや
細やかな気遣いといったようなことでした。

一流を目指すなら、一流の人間と一緒に仕事が出来るようにならなければいけない。
仕事が出来る、出来ないだけのレベルの話ではないということでした。


そのサイン会の帰り道の車の中で、自分の甘さに気付き、悶々としたその時でした。

黙り込む私に、社長は私に言いました。


「AKIKO, 不動産のブローカーライセンスを取ってみなさい。
自分への答えが見つかるよ」




次回は、「不動産業界へ」


(続く・・・)